―御鱈河岸―

おんたらかし

三枝千佳月が死んだ

三枝千佳月が死んだ。

白血病で去年の暮れあたりから、郊外にある私立の病院に入院していた。

たまに僕が暇を潰しに行くと、決まっていつもベルリオーズ幻想交響曲が使い古されたCDプレイヤーから流れていた。

僕が入って来て、先ず彼女に言われる言葉は大概…。

 

「君も暇だな。こんな所へ来るより早く彼女でもつくりなよ」

そう言いながら、ゆっくりとした動作でベッドの横の簡易棚の上に置いてあるCDプレイヤーに手を伸ばす。でもあと一歩のところで手が届かないので、いつも僕が曲を止めていた。

そうすると彼女は不機嫌な顔を少し造り、手元にいつも置いてある文庫本を読もうとする。

「人が折角来てやったのに、読書するか普通」

備え付けの簡易椅子をベッドの下から引っ張り出し、悪態をつけると、彼女は。

「君の話はいつも詰まらないから読書でもしながら聞くことにしているんだよ」

「さいですか、じゃテキトーに喋るからイージーリスニング程度にでも聞いとけ」

僕がそう言うと彼女は、黒くて綺麗な目を大きく見開いて。

「これは驚きだな。君の話がイージーリスニングになるだなんて、僕はてっきり発情期の猫の鳴き声程度のものだと思っていたよ」

「発情期の猫ですか。せめてご飯をねだる飼い猫ぐらいにして欲しいな♪」

僕がそう笑いながら言うと、彼女は目を逸らし読書を始めた。

そんな彼女におかまいなしに、僕も近況報告をはじめる。

15分ぐらい取りとめもない話、主に学校での出来事になりがちで…

そうこうしていると、不意に視界の端に何か小さな三毛猫が横切ったような気がした。しかし、今三毛猫が横切ったであろう場所を確認して見ると、そこは透明なガラス窓の外であり、しかもこの病室は地上4階の病棟の一番端にある。

そして病室の外には別段バルコニーとかがある訳ではないので、三毛猫は空中を走ったという何とも変哲なことをやらかしたことになる。

 

これは面白い幻覚を見たと喜び勇み、その幻覚話を早速彼女にしようと思い、口から言葉が零れ落ちる瞬間に、

「そういえば僕、昨日不思議な猫の夢を見たんだよ」

突然、彼女から3ヶ月ぶりの言葉のジャイロボールが僕のキャッチャーミットに届いた。こんなことは例えるなら、F1で日本人選手が表彰台に上がるくらい、もっと言えばドラゴン○Zに出てくる飲茶が勇ましく闘い結構な戦力になり梧空から「おめーけっこう強えーなー」と言わしめるほど珍しい。

 

彼女は続けた。

 

「その夢の変なところは色々あったんだけどね、一番変だと感じたのが目線なんだよ」

「普通の夢って、まぁ色々なパターンがあるけど、その夢はね。目線がコロコロと変わっていくんだよ。最初はたぶん僕自身だったと思うけど、その次に猫になってまた次には人になって、次にまた猫に戻って……それを何回も繰り返していくんだよ。」

「最後はどうなったかは覚えてないけど、目が醒めると自然に目から涙が零れてて、少し癒された変な気持ちになんたんだよね。 本当変な夢」

一気に話終えた彼女は、もうその話に飽きたように読書を始めようとまた本を捕まえた。

僕は彼女の話した話と、先程幻覚として見た猫を無理やりダブらせ彼女の興味を如何にして引き出そうかと考えてみたが、孔明もびっくりな秘策は思い及ばず、ただただ変な話が二つ重なっただけになってしまった事を後悔した。

そうこうしている間に、日は落ち病棟では健康管理は行き届いているが味覚管理は、某海の蛍から延びるラインのように完全破綻している夕餉が配られる時間になった。

僕はそろそろ家に帰らないと、寂しがり屋の家族が心底表面上心配しなくなるころなので、彼女に帰宅することを告げた。

それに対して彼女は素っ気無い返事で。

「ああさよなら。ついでに廊下に行って、ご飯を取ってきてくれよ」

僕は言われるがままに、廊下へ出て行き彼女の夕餉を取りに行った。待て待て、なんで僕が行かないといけなかったかだ?

少し待てば看護婦さんが持ってきてくれるのにな。

取ってきた夕餉を簡易テーブルの上に、置くと。彼女は早速食事をはじめた。

黙って彼女が食事をしている姿を見ていると、彼女が。

「食事の邪魔だからもう帰っていいよ」

と言ってきた。僕が。

「そのプリン美味しそうだね」

彼女の言葉には意も返さず、全く別の回答をしてやった。

すると彼女は、少し恥ずかしそうに。

「物を喰らうという行為は、とても動物的で浅ましいので人に見られたくないんだ」

普段余りお見掛けしたことの無いような彼女の可愛らしい表情に、少し胸の鼓動が速くなり、どう切り返したらいいのか一瞬分からなくなり思わず狼狽しかける。 それでも何とか言葉を吐いて帰ろうとした。

「……ああっっ。もうこんな時間か。じゃ失礼するよ」

僕は着けても無い腕時計を見る仕草をし、病室から抜け出た。

急いで病院の階段を降り、一階のエントランスに着いた時、エントランスの隅にある大きな柱時計の文字盤を見ると、まだ6時少し過ぎであることに気付いた。

 病院を抜けると、僕たちが住んでいる町が線香花火の瞬きのように美しく一瞬見えた。でもそれは何かの間違いだ。この町そんな良いものではないし。

 近年街の再開発が進み、以前よりずっと便利な町へ変貌しつつあるが、それでも一歩、都市開発計画区域を出ると、小さい頃から変わらない、町並みが顔を覗かす。

僕らにしてみれば、そちらの顔の方が馴染み深い。そんな懐かしさと真新しさが同居している町へ今から帰る。結構しんどいのだが…

ここから僕の家まではひどく長い坂道があり、それを完全に下りしばらく遊歩道を突き進むと家に着く。

だいたい自転車を20分ほど漕いだら着くが、行きしは莫迦に長い坂道に手を焼き早くても40分は掛かる。そしていつも僕は乗ってきた自転車を病院の近所にある、コンビニに置かして貰っているので帰り道はそこで駐車賃としてジュースを1本買ってあげている。

コンビニの店内に入ると、時間が時間なので仕事帰りのサラリーマンや学生などが店内のいたる所に居る。めいめい立ち読みしたり、商品を物色したり、携帯で電話やメールをしてたり思い思いコンビニで時間を潰してる。

僕はそそくさと、会計を済ませ自転車に乗り込み、ファンタ片手に長い帰路へ。

家の近所まで続く、昇竜みたいにグネグネとした長い坂道は、下る時はとても清々しい、この為に登って来たかのような爽快感がある。

ほんの数分前まで居た、病院がいま流れていった。

昔はよく、千佳月とこの辺りまで来てこの坂で遊んでいた、それを今ふいに思い出した。どうも最近僕は年寄り臭くなってきているようだ。

このままいくと、いつか千佳月に。

「君は最近多弁になってきているな。多弁は寂しがりの年寄りの証拠だ、あと昔話もな」

そんなことを言われる日も近いのかもしれない。

それでもいいので、昔話をさせてもらうと。

幼い頃の僕は、とても病弱で幼稚園には通った日を数えたら野球の試合が出来る最低人数にサッカーが出来る最低人数を足した程度しか通ってなかったと思う。それ以外は、今千佳月が入院している病院で同じく入院していたり、実家で療養していたり…ぐらいの思い出しかない。

そんな毎日だったが、あるとき家でボケーっと部屋の窓から目の前の幹線道路を見ていると、赤いワンピースを着た、同年齢にしては少し大人びた印象を受ける女の子が、何やらこちらをじっーと見ていた。

僕はその彼女の目がまるで黒曜石の光沢みたいに美しかったので、彼女に見られるのが何だか恥ずかしくなって、顔を逸らし目線を合わせないように気配った。そんな僕の防衛措置も功を奏さず。

彼女の目線は僕へと一方的に注がれている。

仕方ないので、僕は重たい体を起こし、彼女が居る方へ歩いていった。

そして、部屋のドアを開け、何かを言ってやろうかと思いながら彼女に声をかけようとしたら、いきなり何かが迫ってきた。

急に彼女が僕の部屋へ窓から入ってきて、もう随分前からの友達だったかのように喋ってきた。

「昨日の大橋巨船の地球まるごとクイズダービー見た?」

僕は大橋某や地球まるごと~など知るはずもないので、彼女の問いにどう答えたら良いのか全く分からずただ困った顔をした。

すると彼女が。

不思議そうな表情を造り、質問を全方位に投げかけ勝手に自己解釈してきた。

「どうして知らないの?ひょっとしてテレビ見ないの?じゃ夜はなにしているの?…ああそうか、君は体が人より弱いんだね。なるほど。そうかじゃいつも寝ているの?」

仕方ないので僕は簡単に答えた。

「そうだよ」

 その答えを聞くと彼女は納得してくれたようで、今度は要請してきた。

「喉が渇いたから、何か飲み物欲しいな。君んちカルピスある?」

なんともめんどくさいお客さんだ。仕方ないので、僕は台所へ行って冷蔵庫からこの間お歳暮とかいう大人たちのプレゼント交換合戦でうちに届いたカルピスを2つのコップへ注いで、お盆に乗っけて持っていった。

彼女は僕がお盆に乗っけ飲み物を持ってくると直ぐさまそれを飲み干し。満足そうに満開の笑顔を見せ僕にこう宣言をした。

「僕の家、ここから近いのでまた明日来るよ♪ それと、大橋巨船の地球まるごとクイズダービーは絶対見た方が良いよ。特に原田平蔵が出るときはビデオに録画することをオススメするよ」

なんとも有難い忠告を戴いた。

僕はその忠告になんとなく答えた。

「寝てなかったら見ることにするよ」

そういうと、彼女は、何を思ったか。

「毎週水曜日の9時からやっているので、8時50分になったら電話するよ。だから電話番号教えて」

僕は彼女に言われるがまま、自分の家の電話番号が書いてある紙を電話機の横に置いてある木製の3段になっている箱の一番したから取り出し彼女にそれを見せた。

彼女はそれを見ながら、テーブルの上にあったボールペンを使い近くの新聞を勝手に破り、その切れ端にうちの電話番号をメモした。

それが終わると彼女は、メモした切れ端を手に握り締めて「じゃあね」と一言いって窓から帰っていった。

それが彼女、三枝千佳月との初対面であり、僕が生まれて初めて喋った女の子であり、生まれて初めての友達でもあり、初めて好きになった女の子でもあった。

まだまた残暑厳しい8月のことであった。