―御鱈河岸―

おんたらかし

ユキノシタの誤謬

応接間で寝ていた私のことなど見えないように、母はピアスのキャッチを留めようとしばし中空を見つめて黙った。
 ピエゾのアイストローチというそれは健一から誕生日にもらったもので、私がもっとも気に入っているアクセサリーのひとつだった。嫌な言い方だけど仕方がな い。健一と私はもう4年も付き合っているのだし、付き合った分だけ歳をとって、その中で健一は着実に私の好きなものを把握しつつあった。
 母はテーブルの上にある灰皿を持ち上げた。私には見えない微細な傷をゆびでなぞる。満足がいくとテーブルに戻す。私は知っている、それは今日一日のお小遣いをそれと知られないように私に渡すためのギミックなのだ。
 灰皿のすぐわきにある私の足に行儀が悪いからと怒ったりできない母の、少女らしいいいわけの時間なのだ。

母が仕事にでかけてまもなく、甘味料のえぐみと奥の銀歯にあたるリズムを生み出していたキャンディーは、少しいいにおいのする紙のスティックにかわった。 母が5千円札とともに置いていった、パーラメントの1ミリ。火はつけずにくわえるだけ。茴香のけだるい夏の木陰にいるようなにおいがする。
 私は母が見つめていた部屋の一点を見つめる。彼女が描いていた予定を想像する。健一とあの人はどんな話をするのだろう。私が見つめていた空間が熱を持って ねじ曲がり、一瞬間のうちに空はだくだくと流れて耳の後ろへ流れていく。裸の男が起き上がり、つづきをはじめようと焦る。私の一日が始まる。男は「千代 子」とつぶやき、果てる。私もやはり、果てる。砂漠の上をラクダがいく。