―御鱈河岸―

おんたらかし

リンボ

煙草を吸う事の意味が欲しいのなら、煙草について考えれば良い。

何にだって言える、欲しいのなら手に入れる手段を探るよりも早く動く事が大事なんだ。

次の事は次に考えれば良い、そうすれば何だってわかってくるし、近付いていく事が出来る。

手に入れられるか、手に入れられないか、手に入れるべきか、入れないべきか、そんな事も全て知る事になるんだ。

そして選べば良い。どうするかってね。

君は望むままに手に入れたり、手に入れなかったりする。

そうする事の資格を手に入れる事が出来たのだから。

単純なんだ、何もかもが単純で馬鹿らしい。

単純で馬鹿らしいからこそ、理由が欲しい、理由の理由が欲しい、理由の理由の理由の・・・・・・ そうやって何もかもが複雑に難解になっていくわけだ。

そして言う『何でこんなにややこしい世界なんだろう。昔の方が良かった。便利さと自由は反比例してるんだ。』ってね。

君達が望んでそうしてきたんじゃないかと憤る人の意見には誰も耳を貸さないくせに、誰かが作った理由を一つ解いた人に賞賛の声を与える――素晴らしい、世紀の大発見だ!

発見のわけなんてあるかい、元々は一つの事だったんだ。

君達が望んで複雑にしただけじゃあないのかい?

自ら複雑にして、自らが解く。

何世紀かの間に積み上げた煉瓦の山を、何世紀かかけて切り崩していく。

ある程度の空間とある程度の積み上げるものさえあれば、君達は延々と子々孫々喜んだり褒めたりしあえるんだ。

積み上げる意味も切り崩す意味も必要じゃない。

積み上げる必要と切り崩す必要だけさ、何故かなんて問題じゃあない。

それでも何人かが何故かについて考える、深く深く。

行き着くのは積み上げる事への空想と理想、拒絶や確信。 空間への自己の抽入、抽出。 そして、自らを自らの理念を積み上げていくわけだ。

煉瓦のように、一段一段と。

ただ、煉瓦を積み上げる事とはっきり違うところがある。

まるっきり逆の事だと言える事がある。

思想や想像には実質的な重さというものがない事だ。

重さがないと持ち上げる事が出来ないと謂いたいわけじゃない。

逆の事なんだ、例え100段積み上げようが一段目の煉瓦のようなものを自らの意思ですぐに取り出せるということ。 そして、1段目の煉瓦のようなものをより大きな土台にする事だって出来る。

30段目の石を全く別の石に取り替える事だって出来る。

全てが君の選択次第になる、望むがままに望むように出来る、一瞬の内に。

選べるか選べないか、知るか知らないかの間の溝はマリアナ海溝よりも深い。

何よりも深い。

おいそれと飛び越える事は誰にも出来ない。

どんなに煉瓦を積んだり切り崩したりしたとしても、 どんなに真面目に煉瓦のことを思ったとしても、 そこには選択の余地なんてありはしない。

煉瓦とちっぽけな空間が待ってるだけで、その前に君が居るという事だけだ。

動きたくなければ、動きたくない事について考えれば良い。

動くよりは「マシ」で良い。

何だって良い、理由もあとから考えれば良い。

考える事に向き合う事のやり方を知る事だって、一つの選択だから。