See-She
序章
引越しシーズンの到来
左川に白猫ヤマト、アース引越しセンターに蟻さん引越しセンター。
この時期になると春からの学生生活を楽しむため。社会人となり一人前の大人になるため。様々な理由を胸に抱え、地方者が都市へと転居移住をはじめます。
そして、地方から都市へ転居する者たちは、大抵ある種の不安と希望を抱いているものです。地方から都市へ転居する者は、往々にして都会というものに淡い幻想を抱いてしまいます、なのでその幻想した都会へ地方者ものである自分が馴染んでいけるか?
という、暮らし始めたらどうでもよくなる不安を抱いてしまうもののようです。
転居して一番の関心ごとは、なんといっても新しい出会いでしょうね。
ここで間違いを犯すと、後々まで尾を引いてしまいます。
なので、転居したら最初に考えておいた方がいいのが、良き友を作る。
これです。
これのみが転居した先での一番の楽しみではないでしょうか。
失敗したら…
もう一度転居すればいいんですよ♪
でも、そうもいかないことも稀にありますのでご注意。
例えば。
これからするお話がそうなのですけどね
。
第1章
暗く闇色が部屋全体を溶かしている気さえ起こすこの部屋。
引越ししたて、ということもあり部屋にはめぼしい家具が何一つ無い。
あるのは、引っ越した時に運搬用に使ったダンボールと、その内含物だけがやる気の無いオブジェみたいに部屋中に転がっている。
生活感が全く無く、電気を消している今となっては、虚しさぐらいしかこの部屋から感じとるものが無い。
暗く。殺風景。
前の住人の方がきっともっと生活感が溢れた部屋作りをしていたはずだ。
引越し初日だからといって、こんなに部屋にモノがないのは可笑しいものである。
そんな殺風景な部屋を、不気味な色で塗り足してくれるかのように部屋では先程から男の呻き声が聞こえて来る。
喉を潰され今にも、こと切れそうな声が殺風景なこの部屋のBGМのようだ。
「ぁしゅっつぇっぇうぅぅれぇぇ…」
もう少し詳しく部屋の情景を付加しておくと腐臭音が漂っている。
それもそれも極めて不快な。いや、腐潰(ふかい)といった方が正しいのかもしれない。何をどうしたら、ここまで深く心を掻き毟られる程の不快な臭いを作り出すことが可能だったのだろうか。
身近にあるものでその腐潰の匂いを例えるとするなら、夏場に密封状態の豆腐を1週間常温で放置したときに発生する匂い。
それを幾乗も強力にしたら、いまこの部屋に充満している腐臭が出来上がるのだろう。
そんな腐潰物から取り出されているような音なので、不快でないわけがない。
その不快な部屋には、独りの日本人形が部屋の真ん中辺りで座している。
昏部屋なので、眼を凝らして見ないと視認できないが、凝らし凝らし見るとどうやら日本人形は優美な花魁衣を着飾っており、貌は…
意志の強そうな大きく丸く黒い目が印象的。
衣装からのイメージとは正反対な薄い唇が、どこか艶かしい。
以上の部位をバランスの整った小さな貌に収めている。
一点不思議なところがあるとしたら、この日本人形、髪を結っていない。
座っていると床まで届いてしまう長く漆黒の髪。
それを綺麗な日本人形さんは、弄びながら死に逝く男の貌をぼんやり眺めている。
呟きにも似た小さき鋭利な聲(こえ)で
「とっとと、死になさいよ。鬱陶しいわね」
花魁衣装を着込んだ、綺麗な日本人形のような少女はそう言い放った。確かにそう、うざったそうに言い放った。
それに答えたのか、瀕死の男は有機物から無機物へと生的な物が一つ二つと三つと逓減していき終(つい)には……
ここらで私の検分は終わる
なぜならもう息ができなく、頭も白で覆われ… 死とは烈光であっ…
「この男も、つまらない男。面白くもないし、強靭な肉体も狂人な思考も持ち合わせて無い、ただの人間よ」
心底つまらなさそうに、綺麗な生きた日本人形みたいな美少女は零す。
彼女の名は綺麻(あやめ)といって、コノ部屋に彼此70年は棲みついている生きた幽霊である。
彼女はコノ部屋に引っ越してくる者を喰らっては、その喰らった人間の生命力を吸収して生き永らえている。 何故そこまでして生き続けなくてはならないのか、それは当人。少女にしか分からない。
否、もう既に有限の刻を生き過ぎて、生きる目的を少女自身忘却しているのかもしれない。けれど、それども尚、少女は生きた幽霊となってまで行き続けているのだ。
冥(くらい)部屋が、また一層闇(くらく)なり。
少女の表情も人間的表情が乖離してきている。
それでも、少女をまだ生きた人間とたらしめている一糸の鎖がある。
わらべうた
少女がまだ幼子の頃に、母か姉やに教えてもらった唄。
幼き日、自分と同じような子供たちと一緒になって夕日が眩しい田園で稲穂を振り揺らし謡った唄。
夕闇が迎えにきて、周りの子供たちは皆連れ去られた唄。
哀しさと懐かしさが入り混じり、抱懐した崩壊した回想の中の拙いわらべうた。
その唄を謡っているときだけが、少女が人間らしく居られる唯一のときであった。
〝遠くの山に夕靄おっこちた
おてんとさまにさようなら
烏もスズメも帰りましょ
お山の向こうの延天寺
坊さん泣く泣く、暮れ逝く秋の夕暮れ
里の家々かやぶき
きょうもまんまが食べれて
笑み笑み笑み
零れるのはご飯と笑みと話し声
姉やは一品多くて羨ましい
話し声話し声
戸を叩くは風か人か黄昏か
黄昏姉やを連れてった
黄昏 古銭残して連れてった
きょうもまんまが食べれて
うれしいな〟
少女の啼くような唄声が狭くて暗い部屋に充満する。
少女の脳髄に蓄積されていた遠い日の記憶は、
その大半が、彼女が生きてきた証であるのか、失われ。今では生身の人間だった頃の名前すらも、お朧気ながらでしか思い出せずにいる。
もう今の少女にとっては、自身の名前などただの記号にしか過ぎない。
温かみを込めて呼んでくれた肉親たちは、とうに死人となり、勿論仲の良かった友人たちも死人か行方知らずになっていた。
名前とは、相手に呼ばれて初めてその意味を成すものであるが、親しい者に呼ばれることの無くなった名前などというものは、ただの呪(しゅ)であって、無味なさないものであろう。
少女の名を呼んでくれる者が現れたなら、少女も生きた幽霊という人間社会から浮遊した存在を終わらせるかもしれないが、少女の前には未だ現れずにいる。
永き時の流潮は、少女に厭世感と選民思想をもたらしていた。
半永久的孤独により少女は、自分という存在しか価値基準を置けなくなってしまい、人に有らざる心を形成してしまっていた。
黄昏が少女の人生を変えたなら、また少女の人生を変えるのも、誰彼だけではないだろうか?
少女が居る部屋は、もともとあった部屋を無理やり矮躯させたような錯覚が起きる、この部屋を何かに強引に例えるのなら、エッシヤーが描く騙し絵の中に登場してきそうな部屋、とでも例えておいた方が賢明かもしれない。
こんなヘンテコな部屋にも外的情報を通知してくれる硝子窓ぐらいは存在している。
ただし硝子窓から外をいくら眺めても、お月様はもう隠居していて、矢鱈にでかくノーフードウな雨雲達が跋扈しているので、暗闇しか見えない。
その闇より暗いこの部屋でこれから1小節の偶然的物語が始まる。