―御鱈河岸―

おんたらかし

トローチ・サブリナ

雲ばかり映える夏先の16時過ぎには 相も変わらず自転車とバス停との逢引が恋しくなる。

君が待つらしいあのバス停までの坂道が 水を越える大きな橋があって、町で一番の競技場があって 一つ一つ場所も変えず名前も意味も何も変えない区切りを 少ないけれど流れのあるこのバスの中で しっかり埋めてくれるように願って 当たり前なのかもしれないけれど、当たり前でなかったあの頃は そうして毎日バスが望んだ停留所に辿り付くのが 何にも代え難いほどに大切な事なんだと思っていた。

今でも思ってる、今でもこれからもずっと思っている。

当然待ってくれてはいるのかもしれないけれど 約束したわけでもなくて 待っていて欲しいとお願いしたわけでもなくて 君が『待ちたいから待つんだよ』なんて言ってくれたあの場所で座るでもなく休むでもなく、自転車に跨ったままの君を見つけた時などは 約束をして、それに対してお礼を言う事の当たり前さとゆうものを あれほど羨んだ事はもうこれから先無いだろうなと思う。

ただ一つの約束で、たった一つの言葉がおまけの様についてくるそんな魔法みたいなやりとりを結局の最後まで手にする事は出来無くて だけれど、やっぱり待っていてくれる君の方へ たった一つの言葉を放りなげていられたのならば、 この今のあの時間への思いも少しは薄っぺらくなってくれてたのだろうか。

流れるように走る君の背に乗って 大きな市場も、見られる為だけの機関車も、 8つ又に分かれた歩道橋も それらを目指した人達がちゃんと存在している事も 少しの文字で通り過ぎてしまう程に、 小さな背中をゆらゆら左右に揺らしながら 息も汗も私の1年分くらい描いている華奢な、小さな、大好きな背中の上から 止め処なく限りなく溢れる言葉の海の中で 凪いだその海の音の中で浮かんで居るのが好きだった。

痛んだ上に人工色の黒い髪 少し大きい制服のズボンにあまりにタイトな白いワイシャツ 汗の匂いと町の匂い、海の匂いと私の汗 夏で暑くて雲が広がる空 人、バス停、自転車、私 あの夏の思い出には君はもういない 自転車の速さについていけない私の目の様に 春から夏先にかけて凄い速さで君は駆け抜けて行ってしまったのだから。

今でも思い出すあの季節の上で 少ない時間のその上で 私はバスが感覚を詰めていくように 少しずつ君の事がわからなくなっている様な気がする。

あれから4度目の夏が今此処にあるように 4度目の春から夏先に君がいないように 私は少しずつ馬鹿になっていく。

思い出に囚われたのなら もう出口はそこにはないのよ 未来を見つめる為に思い出をファイリングするように 大人になる為に靴下を脱いでいくように 制服を脱ぐように殺虫剤を買うように そこには出口はもうないの 辿った道を戻るのなら もう何もそこにはないのよ 苺がシロップになるように ビルがずっと高くなるように 私の事を思い出したりしないで 貴方の分まで考える時間を使っていたいから 私の事を話したりしないで 話した相手に嫉妬されないような そんな記憶は棄てちゃえばいいのよ 貴方が其処に居た事は私が全部覚えているから 苺がシロップになるように ビルがずっと高くなるように 制服を脱ぐように殺虫剤を買うように。

三枝千佳月が死んだ

朝、目が覚めるとすぐ横から寝息が聞こえてきた。

片耳からは心音も聞こえている。

どちらもまだ眠ってらっしゃる、千佳月さんのものらしい。

マイナスイオンすら出ているのではないのかと思ってしまう心地良い音のリズムで、もう一眠りすることにしよう。

目覚めの刻を知らせる鳥達は鳴きつかれ、代わりに烏が帰宅の刻を流布している。

再度目が覚めた。

横を見ると千佳月が居ない。

この部屋は個室なので、部屋の主がいないとどうも狭いはずの部屋が広く感じて、どこか寂しい。携帯をジーパンのポケットから出し、時刻を表示させる。

6時25分

「あれ?この携帯壊れたのかな…」

自己弁解のための独り言をしてみる。

どうやら一日中ここで寝ていたらしい。

まぁ昔から寝る子は育つというから、まぁいいか。

千佳月が帰って来るまで、少し千佳月の本でも読んで時間を潰そう。

そう思い、千佳月が本を納めている引き出しを開ける。

すると沢山の本がごったがえしており、何を読もうかと悩む。

仕方ないので面白そうなタイトルを見つけ、それを読むことにする。なので引き出しの中をしばらく物色物色。

一つ一つの本を漁り、面白そうなものを探してみる。

一分程掛かってやっと一冊の面白いタイトルの本を探し当てた。タイトルには。

〝ナナツキに咲くサクラ〟と書かれている。

さてと、千佳月が帰ってくるまでどこまで読めるのかな?

………

………

……

病室の清潔感最優先のくたびれた空調機が、静寂な空間の音の支配者となり部屋の無音化を防いでくれている。本を半分以上読み終えたところで、携帯の時計を見る。

7時50分。

かれこれ一時間半近く、本を読み耽っていたことになる。

「それにしても千佳月遅いな」

携帯で連絡取ろうと思ってみても、彼女は携帯電話をはなから持っていないので連絡しようがない。ただただ待つしかないのである。

もう少しこの本を読みながら、待つしか選択肢がないので再度読み始めることにしよう。

……

さっきから気になっていたんだけど、本の中の平仮名の特定の箇所に何故だか鉛筆で○で囲まれている。 それを先程から順番に読んでいるのだけれども、文章にはならないただのあべこべな言葉になる。

仕方ないので○で囲まれている箇所を全部今抜き出しているところだ。

全部抜き出した○で囲まれていた平仮名を、近くにあった紙切れに書き出してみた。すると、それを反対から読むと

〝ひ・ま・な・き・み・に・つ・た・え・る・ま・く・ら・の・し・た・を・み・よ・〟

と言う文章になっていたのだ、暇な僕は千佳月の枕を持ち上げる。

すると、枕の下からは1枚の便箋が出てきた。

その便箋の中を開いてみると、1通の白い手紙に黒いボールペンで書かれた文章が現れた。

暇なので読んでみるとする。

 

〝××くんへ 今までありがとう。君と最初に会ったときから僕は君のことが好きでした。 いまさらこんなことを言っても仕方ないのですけどね。そうそう、空を泳ぐ猫の話ですけど、あの猫ね僕もこの前屋上で見ました。世の中まだまだ不思議な物が存在していたりするのですね。ではさようなら。僕が生きていたということをいつまでも憶えていてくれたら嬉しいな。最後にもちど言います ××くん僕は貴方のことをいつまでも好きでいようと思います。〟

読める文章はそこで終わっているのだけれど、それ以降にも文章が書かれているらしかったが、ボールペンで思いっきり塗りつぶされていた。

その部分を光に当てて、後ろから読むとかろうじてなんとか読めた。

〝この世界、この体、この運命が嫌い どうせ病を患ってゆっくりと衰弱し死んでいくくらいなら体が動くうちに自分から生の終焉を迎えるほうがよっぽど私らしいはず でもでもでもでもでもでででもでもでもでもででもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもでもどーーーーーーーして私なの?どうして私はこんな病気で死なないといけないのいけないのいやなの! まだ私はやりたいことあるのに、××と一緒にデートもしたいし、××で遊びたいし。色々したいのに、どうしてこんな病魔に犯された体なの、全てが理不尽だ 全てが大嫌い でも××だけは大好き 彼を思うこの気持ちが未来永劫続くように私はいまから死にます 大好きな××くん いままでありがとう〟

 

そこまで読むと、すぐさま屋上を目指し病室を出た。

病的に白い廊下を全力で走り、屋上へとつづく階段を駆け上がると、屋上への出入り口のドアが見えた。時間が時間なので鍵がされていたけど、ドアのガラスの部分を近くにあったスタンド式の煙草の吸殻入れでぶち破って、ドアノブを反対側から開け鍵を外した。

屋上には一つの人影もなく、洗濯用の物干し竿が数本佇んでいるだけであった。

千佳月の狂行が終わった後なのか?心臓の高鳴りが益々ひどくなる。

屋上を一周しながら辺りを見渡す。

異常がない。

そのことが返って僕を不安にさせる。不自然なところがどこにも見当たらない。

空を何故だか見上げた、するとまたいつかの、空を泳ぐ三毛猫がいた。

今度は2匹になっている。

もう一度屋上の一番隅から下を見渡すと、白い服の人型がうつ伏せになった状態でのびているのが見える。周囲には人だかりが出来ているのが視認できた。

 

風も冷たい人も冷たい世界なんて冷たいものだと思い、僕はゆっくりと屋上を後にした。